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松江地方裁判所 平成10年(わ)50号 判決 1998年7月22日

主文

被告人に対し刑を免除する。

理由

【犯罪事実】

被告人は中華人民共和国の国籍を有する外国人であるが、有効な旅券又は乗員手帳を所持しないで、平成一〇年二月上旬頃、同国福建省から船に乗って出航し、同月一九日午後一一時三六分頃、島根県八束郡鹿島町大字恵曇町五三〇番地七先の恵曇漁港岸壁に上陸し、もって不法に本邦に入国した。

しかし、被告人の右行為は、被告人の妊娠中の胎児の生命及び被告人自身の身体の安全に対する現在の危難を避けるためにした行為ではあるが、その程度が右危難を避けるためにやむを得ない行為としての程度を超えたものである。

【証拠】《略》

【法令の適用】

1  罰条

出入国管理及び難民認定法七〇条一号、三条一項一号

2  刑種の選択

懲役刑

3  刑の免除

刑法三七条一項但書

【弁護人の主張に対する判断】

弁護人は、被告人の本件密入国は、中華人民共和国(以下「中国」ともいう。)で行われている一子政策の下で、計画外妊娠をした被告人の身体(胎児の生命)・自由・財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為であって、これによって生じた法益侵害が避けようとした法益侵害を超えない場合に当たって、緊急避難に該当するから、被告人は無罪であると主張し、また、被告人は、中国に留まっていた場合には、計画外妊娠をしているとの「特定の社会的集団」の構成員であることを理由として、被告人の身体(胎児の生命)・自由等に対する迫害を受けるおそれがある難民であって、右迫害を受けるおそれがあるため、本件密入国により、中国から直接我が国に入国した者であるから、出入国管理及び難民認定法七〇条の二本文により被告人に対し刑を免除すべきであると主張する。

そこで、まず、緊急避難の成否につき検討するに、当裁判所は、本件密入国は、被告人が、妊娠中の胎児の生命及び被告人自身の身体の安全に対する現在の危難を避けるためにした行為ではあるが、右危難を避けるために許容される、やむを得ない行為としての程度を超え、過剰避難に該当するものと考える。

以下、適法に取り調べた関係証拠に基づいて、右のとおり判断した理由を述べる。

一  前提となる事実関係

1  中華人民共和国の人口政策

中国では、一九七〇年代後半から人口増加を抑制するための人口政策が採られ、中華人民共和国憲法(一九八二年発効)において、「国家は計画出産を推進して、人口の増加を経済・社会的発展に適応させる。」(二五条)、「夫婦は、双方とも計画出産の義務を負う。」(四九条二項)と定められ、中華人民共和国婚姻法(一九八〇年発効)は、「結婚年齢は、男は二二歳、女は二〇歳より早く結婚してはならない。晩婚・晩産を奨励しなければならない。」(五条)、「夫婦の双方は、いずれも計画出産を実行する義務を負う。」と規定して、以後、人口増加抑制のための計画出産が重要な国策として実施され強力に推進されてきた。

人口政策としての計画出産の基本は、晩婚(法定結婚年齢より三年以上遅れて結婚すること)・晩産(「晩育」。女子が二四歳を過ぎてから出産すること。)・少生(少なく生むこと)・稀(出産間隔を三ないし四年あけること)・優生であり、一組の夫婦に子供が一人をスローガンとする「いわゆる一子政策」の奨励であるが、これらを内容とする計画出産に関する法令は、省(直轄市・自治区)によって、各地の実情に応じて「計画出産条例」として制定され、一九九一年三月には、新彊自治区及びチベット自治区を除く全国の省(直轄市・自治区)で「計画出産条例」が制定された。

各地方の計画出産条例には、制定の時期にも関係して、その内容に多少の相違はあるが、概ね、計画出産の組織・機構・管理体制、第二子出産条件、優生・産児制限、計画出産に従った場合の奨励策、計画外出産に対する経済的制裁・行政罰等に関する規定が置かれ、計画出産の基本政策に副う産児制限等には手厚い優遇措置が講じられるのに対し、計画外出産(未結婚者の出産も同様)に対しては厳しい経済的制裁等が課されるものとされている。

そして、人口政策としての計画出産の実施は、中華人民共和国国務院の直属機関である国家計画出産委員会を頂点として、省(直轄市・自治区)に設置された計画出産委員会、さらに地区(市)・県・郷(鎮)に設置された計画出産委員会もしくは計画出産弁公室を通じて行われ、他方、居民区組織及び職場組織を通じての計画出産管理も受けるため、地域末端の出産適齢女性は二重三重の計画出産管理のもとに置かれている状態にある。

2  福建省計画出産条例の内容

福建省計画出産条例も、概ね他の省(直轄市・自治区)の計画出産条例と同一の事項についての定めを置いているが、本件に関連する部分を摘記すると別紙のとおりである。

3  被告人の妊娠と出国までの経緯

被告人は、一九七二年一一月二三日に中国福建省福州市《番地略》で出生し、一九九一年に、一八歳で同県東岸村に居住するAと結婚した。もっとも、同国婚姻法では、結婚年齢は男が二二歳、女が二〇歳とされ(五条)、結婚しようとする男女は、婚姻登記機関に出頭して、結婚登記をして結婚証の交付を受けることとされ、結婚証の取得をもって夫婦関係が確定するものとされている(七条)が、右当時被告人が結婚年齢に達していなかったため、結婚証の取得はもとより、結婚登記もできず、したがって、被告人とAとは、右結婚にもかからず、法律上の夫婦とはいえなかった。

被告人は、Aの妻として、同人及びその両親と東岸村で生活し、一九九一年五月頃妊娠(以下「第一回妊娠」という。)したが、被告人は、結婚年齢にも出産年齢(福建省計画出産条例五条参照)にも達していなかったため、中絶手術により人工流産した。

その後、被告人は、再び妊娠(以下「第二回妊娠」という。)し、一九九二年四月にはB子(女児)を出産したが、同年七月頃、Aが、被告人と子供を置いて出奔したため、被告人は、同年八月頃、子供を連れて后二村に戻り、両親宅の隣に家を建ててもらって生活するようになった。なお、Aの所在はその後も不明のままである。

被告人は、一九九五年七月頃、C(連江県に居住する三一歳位の男)と知り合って男女の仲となり、一九九七年一二月になって妊娠していること(以下「本件妊娠」という。)が分った。

一九九八年二月上旬、被告人は、福州市の官光において、今まで全く面識のなかったDと名乗る男から、日本への密入国を勧められ、その日のうちに同市付近の港から船に乗って出航し、同月一九日我が国に密入国した。

被告人は、同年六月一〇日に医師の診察を受けた結果、妊娠二八週余りで、出産予定日は同年八月二七日と診断された。

二  現在の危難の存否について

弁護人は、本件妊娠が一子政策に反する計画外妊娠であったため、被告人が中国に留っていた場合には、その事実が村役場の役人に発覚して病院に連行され、強制的に中絶手術を受けさせられる差し迫った危険があった旨主張する。

被告人は、弁護人の右主張に副う供述(捜査段階における供述を含む。以下、同じ)をするが、その内容の要旨は次のとおりである。すなわち、(ア) 被告人の第一回妊娠は、結婚していっしょに生活していたAとの性交渉によるもので、A及びその両親も出産を希望していたのであるが、被告人が結婚年齢に達していない時期における妊娠であり、また、福建省計画出産条例で定める出産年齢にも達していない時期における妊娠であった。そのため、被告人が、役場から来た妊娠検査のための呼出に応じないでいたところ、村役場と計画出産委員が多数被告人方に押し掛け、逃げ出そうとした被告人は、手錠をかけて村の病院に強制的に連行された。そして、被告人は、村の病院で妊娠検査をされ、妊娠三か月から四か月と診断され、早婚・早育(晩婚・晩産に当たらない婚姻・出産)ということで中絶手術を受けさせるため、鎮の病院、さらには県の病院に連れて行かれ、被告人が同意していないのに、強制的に中絶手術をされて、胎児を人工流産させられた。(イ) 被告人の第二回妊娠も、早婚・早育に該当し、村役人に妊娠の事実が知られると、再び強制的に中絶手術を受けさせられることは必至であったので、A及びその両親と相談し、山間部にあるAの親戚の家に行き、そこに隠れてB子を出産した。(ウ) 右出産後、避妊リング装着の方法による産児制限措置を受け、一九九七年一一月まで三か月に一回の割合で妊娠検査を受けていたが、避妊リングが自然に脱落したためか(故意に避妊リングを取り外したことはない。)、交際していたDとの性交渉によって妊娠し、そのことは同年一二月に分った。(エ) 本件妊娠は、結婚していない男性との性交渉による妊娠であり、福建省計画出産条例に定める第二子出産条件を満たさない上、もちろん事前の出産許可も得ていなかったので、本件妊娠にかかる子供を出産することは計画外出産に当たるが、被告人はもとより、Dも出産を希望していた。しかし、計画外出産となる本件妊娠が村役場に発覚すれば、第一回妊娠の場合のように強制的に病院に連行されて中絶手術を受けさせられるので、二人で、第二回妊娠の場合のように親戚に隠れて出産することも相談したが、一九九三年頃からは、三か月に一回の妊娠検査が義務付けられているため、出産まで居住地を離れて長期間隠れていることもできず、また、もし被告人が出産のために親戚に隠れていることが発覚すると、その親戚も処罰されることになることから、そのような行動に出ることもできなかった。そして、本件妊娠後最初の妊娠検査が一九九八年二月中に予定されていたため、本件妊娠が村役場に発覚するのは目前に迫っていた。(オ) 被告人が居住する村において、一九九三年頃、計画外出産にかかる妊娠をしたということで強制的に中絶手術をされた被告人の親戚や友人の女性がおり、一九九七年にも同様の話を聞いたことがある。

被告人の供述の要旨は右のとおりであるが、被告人の右供述については、福建省計画出産条例により早婚・早育が禁止されていて、第一、二回妊娠が早婚・早育にかかる妊娠であること及び本件妊娠にかかる出産が同条例による計画外出産に該当することを除くその余の部分は、第一回妊娠が被告人の不同意にかかわらず強制的に中絶手術を受けさせられて人工流産させられたこと及び被告人の居住する村において計画外出産にかかる妊娠に対し強制的な中絶手術が行われていることを含めて、これを直接に裏付けるような証拠はない。

しかし、中国政府が参加していないこの裁判において、他国である同国内における計画出産関係法令の内容やその運用の実情を詳らかにすることには大きな困難が存在するのではあるが、次の諸点を考慮すると、特段の反証もないので、被告人の右供述は概ね信用できるものと考える。すなわち、

a  中国国内において一子政策を中心とした計画出産政策が強力に推進されて出産管理が徹底して行われ、計画出産に従う場合には各種優遇措置を与える一方、計画外出産に対しては規制や経済的処罰を課すという、いわば「飴と鞭」の方策が用いられていることは先に認定したとおりである。

そして、被告人に適用される福建省計画出産条例の内容も右に副うものであり、同条例の「産児制限の章」には、「出産能力のある夫婦にはいずれも計画出産に基づき有効な産児制限措置の実行を要求する。計画外妊娠をした場合は、所属先あるいは郷(鎮)人民政府・町内行政出先機関・村(居)民委員会には早期救済措置を取らせる責任がある。」(一三条)との規定があり、計画外妊娠をした女性に対し「早期救済措置」を取らせる責任が関係行政組織にあると定めている。この「早期救済措置」が具体的に何を意味するかは証拠上必ずしも明確ではないが、広東省計画出産条例(一九八六年六月一日公布)とそれに関する公的説明文書である「『広東省計画出産条例』の若干の規定修正に関する決議の説明」によると、同条例二一条が産児制限措置義務の一内容として定める「計画外妊娠をした女子には早急に補救措置がとられなければならない。」中の「補救措置」が妊娠中絶(とそれに伴う優遇措置)を意味するものとして使用されていること(弁3号証の一五三頁から一六六頁)も勘案すると、福建省計画出産条例一三条の計画外妊娠をした女性に対する「早期救済措置」とは妊娠中絶手術を意味しているものと解される。したがって、福建省においては、計画外妊娠した女性に対し妊娠中絶手術を受けさせる責任が関係行政組織に課されていることになるのである。

もっとも、右責任が関係行政組織に負わされていることが直ちに計画外妊娠した女性に対する妊娠中絶手術の強制的実施権限を関係行政組織に与える趣旨と解さなければならないものでなく、したがって、計画外妊娠した女性に対する妊娠中絶手術が強制的に実施されている旨の被告人の供述を直ちに裏付けるものとはいえないことには留意する必要がある。

2 ところで、中国政府は、計画出産政策の実現には、思想教育と奨励策を主として行うべきであり、教育して計画出産に従わない者には必要な経済的制限を加えることを基本とし、自主制の原則の下に実施されるべきものとしているのであるが、一九八〇年代には、中国政府の公的文書において、計画出産政策の実施に当たって、一部の地方に強制命令が行われ、臨機の解決が得られないでいる場合があることを認め、これを戒め改善すべき旨指摘されており(一九八四年三月二二日付国家計画出産委員会党組「計画出産工作に関する状況報告」・弁3の六九頁以下)、その後も、計画出産政策の実施方法に関して、「強制命令を避け難いとする思想がかなり克服され、強制命令の現象が減少した」としながら、「強制命令と野蛮なやり方は、未だに完全に糾正されていない。ある地方では依然重大である。」と指摘し、「計画出産幹部は文明作風を堅持し、文明的に行動しなければならない。」とか「農村の整党と結合させ、幹部に対する教育を強化しなければならない。強制命令を避け難いとする思想をさらに克服し(なければならない。)」との意見が述べられている(一九八六年三月二三日付国家計画出産委員会常組「第六次五カ年計画期間中の計画出産工作状況と第七次五カ年計画期間中の工作意見に関する報告」・弁3の七五頁以下。なお、この報告には「婚姻法第六条に結婚の禁止が規定されている者の、結婚と出産は厳格に禁止されなければならない。」との意見も述べられている。)。

これら公的文書の記載によると、一九八〇年代の後半においても、計画出産政策の実施に当たって、強制命令が行われている地方があり、また、計画出産政策の実施を任務とする地方幹部には、計画出産政策の実施には強制命令を避け難いとする思想がなお根強く残存し、克服すべき課題とされていたことが認められるのである。

3 アムネスティ・インターナショナルが著した「アムネスティ・リポート中国の人権」(弁8)には、一九八〇年代中頃から一九九〇年代中頃までに行われた計画外出産にかかる妊娠をしている女性に対する強制的中絶の事例(福建省での事例を含む。)の報告(なお、時期は明示されていないが、強制的中絶のための手段として「手錠」が使用された事例についての報告)があった旨記載されている。

また、アメリカ合衆国国務省が作成した「一九九七年・中国の人権状況に関する報告書」(弁7)には、「政府は、強制的に中絶や不妊手術を受けさせる方法の使用を禁じている。しかしながら、家族計画目標に強烈な圧力を感じているさもしい地方監督官は、強制中絶や強制不妊手術を含む嫌がらせの方法を採る結果となる。(中略)無許可妊娠した女性が中絶を強制された旨の一九九六年の信頼すべき報告がある。政府の役人は、もし発見されれば、このような強制に責任ある者は、罰せられ、再教育されると述べる。しかしながら、彼らは、このような主張を確認できるようなデーターを全く示していない。」と記載されている。

そうすると、被告人の供述(但し、後記四の2で排斥した部分を除く。)に副う内容の事実が認められるものというべきであり、この事実及び福建省計画出産条例の内容によると、被告人が居住していた中国福建省福州市連江県においては、計画出産を担当する地方官吏が計画外出産にかかる妊娠をしている女性を発見した場合には、その女性に対し「早期救済措置」としての中絶手術を勧めることになるのであるが、その女性がこれを拒否した場合には、計画出産を担当する地方官吏によって、強制的に病院に連行され、同意のないまま「早期救済措置」としての中絶手術を受けさせられることが行われているものと認められる。

そして、被告人が本件密入国のために中国を出国した一九九八年二月上旬当時は、被告人は、計画外出産にかかる本件妊娠をしていて、同月中に予定されていた定期の妊娠検査を間近に控えていた状況にあったのであるから、右当時、被告人は、被告人の承諾なくして行われる強制的な妊娠中絶手術により本件妊娠にかかる胎児の生命を奪われるとともに、被告人自身の身体に対する不法な侵害を受ける差し迫った危険に身を置いていたものというべきであり、したがって、本件妊娠にかかる胎児の生命及び被告人の身体の安全に対する現在の危難(以下「本件危難」という。)が存在したことになる。

なお、弁護人は、被告人が本件妊娠にかかる出産をした場合には被告人に対して罰金等が科されること及び生まれた子供について戸籍が与えられず、予防接種や就学等の公的なサービスが受けられないことも、被告人もしくは妊娠中の胎児に対する現在の危難に当たると主張するようであるが、本件密入国は、妊娠初期の段階で行われたのであって、出産にはなお相当の期間があり、しかも、無事出産されるか否かも不明な段階にあったのであるから、弁護人主張のような事柄は、到底、被告人もしくは妊娠中の胎児に対する現在の危難には当たるものではない。

三  避難意思の存否について

被告人が、本件危難を免れるために本件密入国に及んだことは、被告人が捜査段階から一貫して供述するところであり、本件密入国が本件危難を避ける意思に基づく行為であることは明らかである。

なお、被告人が、付随的に、我が国に入国後、我が国において稼働する意図を有していたとしても、本件密入国が本件危難を避ける意思に基づく行為であると判断する妨げとなるものではない。

四  「やむを得ずにした行為」といえるか否かについて

本件密入国が本件危難を避けるため「やむを得ずにした行為」に該当するか否か、すなわち、本件危難をさけるためには本件密入国の方法以外に他の方法がなく(ここで「他に方法がない」とは、他に本件危難をさけるための方法が一般的抽象的に全くないということではなく、他に本件危難を避けるための現実的可能性のある方法がないと解すべきである。)、しかも、このような行動に出たことが条理上相当であるとして肯定できる場合に該当するか否かについて検討する。

1  二に認定説示したところによれば、被告人が、本件危難を避けるためには、その居住する地(福建省福州市連江県)を離れて身を隠す必要があったものと認められる。

2  ところで、被告人の供述(その要旨は前記二に摘示)によると、被告人は、本件妊娠後、相手方であるCとの間で、強制的に病院に連行されて中絶手術を受けさせられないように、被告人が居住地を出て被告人又はCの親戚の家に隠れて出産することを相談したというのであり、実際にも、被告人は、第二回妊娠の場合には、夫であるAの親戚の家に身を隠して出産した事実があったのであるから、本件妊娠に関しても、そのような方途をとって身を隠して出産することが可能であったのではないかが問題となる。

この点について、被告人は、一九九三年頃からは、三か月に一回の妊娠検査が義務付けられているため、出産までの長期間居住地を離れて隠れていることは困難であり、また、もし被告人が出産のために親戚の家に隠れていることが発覚すると、その親戚も処罰されることになることから、そのような方法を取ることもできなかった旨供述するのであるが、三か月に一回の妊娠検査が義務付けられるようになったことで、何故に長期間居住地を離れて隠れていることが困難となるのかについては明確な説明ができないのであり、また、被告人が、出産のために親戚の家に隠れていることが発覚した場合になされる親戚に対する処罰の内容にも曖昧な点があって、簡単には信用できない。加えて、中国では、一九八〇年代後半より農村部から都市等への戸口(戸籍)変更を伴わない人口の移動(流動人口)が増大して社会問題化し、それに伴って、流動人口が厳重な計画出産管理による規制から漏れて計画外出産が多数生じていることが計画出産管理上の難題とされ、計画外出産が監視の厳しい戸口のある常住地では難しいので、流動人口となって計画外出産をする者も相当数あり、上海市は、計画外妊娠をし、計画外出産をするための土地の意味で「避風港」と呼ばれているというのである(弁3号証一六、一七頁など)。

そうすると、この裁判において中国内における計画出産関係法令の運用の実情を詳らかにすることの困難性は前記したとおりであり、また、同国での計画出産政策が全国的に強力に実施されている実情を考慮しても、正規の手続を踏まずに戸口の存在する地を離れることに伴う処罰(中華人民共和国戸口登記条例参照。弁15号証二九二頁以下)等は別として、被告人が、被告人あるいはCの親戚又は福建省以外の中国の他の地に身を隠して本件危難から逃れる方途がなかったとは言い難く、かえって、そのような方途こそ現実的な方途であったと解されるのである。

3  他方、被告人の供述によると、被告人は、一九九七年二月七日頃、買物のために福州市に出掛けた際、面識のないDと名乗る男から日本への密航を勧められて、本件妊娠にかかる子供を出産したいとの気持ちから、そのまま、家族にもCにも相談することなく、福建省福州市内の港から小さな木造漁船に乗って出航し、数時間後に、海上で大きな木造船に乗り換え、その船で一週間位航行し、洋上で、韓国人船員が乗り組む韓国漁船に乗り換えたのであるが、その間、ひどい船酔いと「つわり」のために何度となく吐き、同月一九日に我が国に上陸したときには二日程食事をしていなかったため、疲れ果てた状態であったのであり、また、洋上で韓国漁船に乗り換える際には、海に落ちそうになるという恐怖も味わったというのであり、かつ、被告人は、右当時妊娠初期の段階にあって、流産しやすい時期にあったのであるから、本件密入国に伴う右のような状況による流産の危険は小さくなかったのである。

しかし、被告人が本件密入国をした前記経緯によると、被告人において、本件密入国を決心するに当たって、それに伴う右流産の危険について慎重に考慮した形跡はない。

4  なお、被告人が、本件危難を避けるため、旅券を取得して合法的に我が国等の外国に入国することが考えられないではないが、中華人民共和国公民出国入国管理法実施規則(弁15の三二九頁以下)の内容及び被告人の供述によると、被告人の学歴、財産・資力等では、政府から出国許可及び旅券の発給を受けることは困難であると認められる。

5  以上によると、被告人については、本件危難を避けるため、被告人が居住する地(福建省福州市連江県)を離れて出産までの間身を隠しておく必要があったことは肯認できるけれども、その方途としては、被告人あるいはCの親戚又は福建省以外の中国の他の地に身を隠して本件危難から逃れる方途がなかったわけではなく、また、本件密入国に伴う流産の危険を考慮すると、本件密入国がその方途として相当であったとも言い難い面があるのであるから、結局のところ、本件密入国は本件危難を避けるための行為ではあるが、そのために許容される、やむを得ない行為としての程度を超えたものであるといわざるを得ない。

五  法益の権衡について

本件密入国によって侵害された法益は、我が国の出入国管理に関する法秩序であり、被告人の本件密入国が、他の同国人多数とともに集団でしたものであることも考えると、本件密入国によって侵害された我が国の出入国管理に関する法秩序を内容とする法益は軽々にこれを軽視することはできないが、被告人が本件密入国によって避けようとした本件危難にかかる法益は、本件妊娠にかかる胎児の生命及び被告人の身体に対する安全であるから、本件密入国によって生じた法益侵害が避けようとした法益侵害の程度を超える場合には当たらない。

以上の次第で、本件密入国は、被告人が妊娠中の胎児の生命及び被告人自身の身体の安全に対する現在の危難を避けるためにした行為ではあるが、右危難を避けるために許容される、やむを得ない行為としての程度を超え、過剰避難に該当するところ、後記量刑の理由欄に説示した情状により、被告人に対し刑を免除することとする。

なお、弁護人の主張中、出入国管理及び難民認定法七〇条の二に基づく免除の主張については、その主張が認められても右と同一の結果となるにすぎないから、その成否に関する判断はしない。

【量刑の理由】

本件は、被告人が他の同国人多数とともに集団で我が国に密入国した事犯であって、我が国の出入国管理に関する法秩序に与えた影響は小さくない。しかし、交際中の男性の子を妊娠した被告人が、その出産を強く望みながら、中国ではその出産が計画外出産として禁止され、妊娠中の胎児の生命及び被告人自身の身体の安全に対する差し迫った危険があったため、いささか安易とはいえ、これを避け、我が国での出産を目的として、大きな危険を犯して敢行した行為であって、本件を敢行した被告人の心情は同情に値し、酌量すべき余地は大きい。そして、被告人の本件妊娠は、夫以外の男性との性交渉によるものではあるが、夫は長期間所在が不明となって、夫婦関係が既に実質的に解消したも同然の状態にあったのであり、また、被告人が、中国において法律上国民の義務とされている計画出産義務に違反することを承知で、故意に産児制限のために装着していた避妊具を取り外し、その結果本件妊娠に至ったような事情も認められないから、本件妊娠をもって被告人を倫理的に非難するのも相当ではない。さらに、被告人にはもとより我が国における前科はなく、また、中国には被告人の帰国を待ち侘びているであろう子供もいる。以上のような諸事情を考えると、被告人に対し敢えて刑罰を科する必要までは認められないから、刑を免除することとした。

(検察官立石英生、弁護人水野彰子各公判出席)

(裁判官 長門栄吉)

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